Mag-log in翌朝。目を開けた瞬間、いつもと違う気配に気づいた。
狭い部屋の隅。窓から差し込む薄い光の中で、少女が静かに立っている。
ミリスだ。
昨夜、裏通りで買ったばかりの――。
……いや。
その呼び方には、まだ慣れない。
「起きています」
目が合うと、ミリスはすぐに言った。
感情の起伏を感じさせない声。まるで、そこに立っているのが当然みたいな顔だ。
「……見れば分かる」
頭を掻きながら起き上がる。
昨夜、風呂に入れて泥を落とし、着替え代わりに自分の服を貸した。
サイズは合っていないはずなのに、妙に様になっているのが少し腹立たしい。
「で、問題は……金がほぼ無いってことか」
ぽつりと呟く。
手元に残っているのは、最低限の生活費だけ。
勢いで買ったはいいが、その後のことは考えていなかった。
……いや。考えても仕方がないと思っていた。
「ご主人様」
「それやめろ」
即座に遮る。ミリスは一瞬だけ止まり、それから首をわずかに傾げた。
「では、なんとお呼びすれば」
「名前でいい。クラド」
「……クラド」
少しだけ間を置いて、ぎこちなく呼ばれる。
何より“ご主人様”という呼ばれ方も、まだ慣れない。
「とりあえず、行くぞ」
「はい」
短い返事。それ以上の感情は見えない。
……分かりやすいくらいの“指示待ち”だ。
身支度を済ませ、外に出る。
朝の空気は冷たい。昨日の裏通りとは違って、まだまともな匂いがした。
だがそれも、商会の建物が見えてくるまでだ。
「……おい、あれ」
「マジで連れてきてんのか?」
入口の前にいた連中が、こちらに気付いて振り返る。
視線が一斉にミリスへ向いた。
「聞いたぜクラド。お前、奴隷を買ったんだってなァ?」
ひとりが冷笑混じりに言う。
俺は短く答えた。隠す必要もない。
「ああ」
「ははっ、マジかよ。借金してまで趣味か?」
「飯どうすんだ? 二人分だぞ?」
「いや待て、そもそもそいつ、使えんのか?」
「無理だろ。顔死んでるぞ」
好き勝手言いやがる。
ミリスは何も言わない。ただ、じっとこちらを見ている。
……やめろ、その目。
「心配してくれてどうも。仕事するからどいてくれ」
「は? その状態で?」
「いやいや、まずそいつどうすんだよ」
食い下がってくるが、無視して中へ入る。
背後で、まだ笑い声が続いていた。
――分かってる。
こいつらの言ってることは間違ってない。
金もないのに奴隷を買うなんて、普通に考えれば失敗だ。
それでも、手放す気はない。
あの数字を見た以上、尚更な。
……いや。それだけじゃないか。
そもそもの最初で、あのまま置いていく。なんて選択肢はなかった。
中に入ると、いつもの雑然とした空気が迎えてくる。
木箱が積まれ、売り物なのかゴミなのか分からない品が床に転がっていた。
俺は慣れた足取りで奥へ進み、空いている作業台の前で止まる。
「……とりあえず、ここ使うか」
「はい」
ミリスが一歩後ろで止まった。そのまま動かない。
視線だけがこちらに向いている。
……完全に命令待ちだ。
「えっと、ミリス」
「はい」
「何かできることあるか?」
荷運びでも仕分けでもいい。
雑用が一つでもできれば助かる。
だが、返ってきたのは予想外の答えだった。
「命令を、お待ちしています」
「いや……そういう意味じゃなくて」
思わず言葉が詰まる。
「自分で動こうとか、ないのか?」
「命令がなければ、動きません」
迷いのない声だった。当たり前のことを答えているだけ、そんな顔をしている。
……なるほど。これが奴隷か。
言われたことだけやる。余計なことは考えない。
「ご主人様の役に立つことが、私の価値です」
「ご主人様は、やめてくれ」
小さく手を振る。
「クラドでいいから」
「……クラド」
ぎこちない呼び方だった。名前を呼び慣れていないのかもしれない。
「あと、その……価値って話だけど」
少し言葉を探す。
「確かに、お前は俺が買った。そこは事実だ」
ミリスは黙って聞いていた。
「でも、別に物みたいに扱うつもりはない」
「……物、ではない?」
「いや、まあ……うまく言えないけど」
頭を掻く。
こういうのは苦手だ。
「働いてもらうのは助かる。でも、“命令されるまで何もしません”は困るっていうか」
「困る?」
「俺、そんな細かく指示できるタイプじゃないし……」
情けない言い方になった。だが、本音だ。
「分かる範囲でいいから、自分で考えて動いてくれると助かる」
ミリスは少し黙り込んだ。
何かを考えるように視線を落として、それから小さく口を開いた。
「……考えて、動く」
「難しかったら、少しずつでいい」
別に今すぐ変われと言いたいわけじゃない。
「失敗しても怒ったりしないから」
「……はい」
短く返事が返る。まだぎこちないが、さっきよりは少し柔らかかった。
「じゃあ、とりあえずこれ頼めるか」
近くの箱を軽く叩く。
「中身を種類ごとに分けといてほしい。危なそうなのは触らなくていい」
「分かりました」
ミリスはすぐにしゃがみ込み、箱の中身を確認し始めた。
動きは静かで、妙に丁寧だ。俺も隣の箱に手を伸ばす。
そのときだった。
「おいおい」
背後から笑い混じりの声が飛んでくる。
「ちゃんと飼い主ごっこしてんじゃねぇか」
同僚の男たちが、面白そうにこっちを見ていた。
「……別に、そんなんじゃ」
「昨日まで自分の飯代で困ってた奴が、急に家族持ちかぁ」
「そのうち“パパ”って呼ばせるんだろ?」
周囲で笑いが起きる。
俺は苦笑いだけ返して、箱に視線を落とした。
言い返したところで、どうせまた笑われる。
「つーかクラド、お前マジでどうすんの?」
「その子の飯代だけで詰むだろ」
「まあ……なんとかする」
「雑っ」
また笑いが漏れる。
ミリスは手を止めず、静かに仕分けを続けていた。
ただ、時々こちらを気にするように視線だけ向けてくる。
……昨日まで、一人だったんだよな。
ふとそんなことを思う。
裏通りの隅で、誰にも見向きもされず座っていた姿が頭をよぎった。
少なくとも。あそこに置き去りにするよりは、マシだ。
そんなことを考えた、次の瞬間だった。
外から、何かが割れる音が響いた。
乾いた破砕音。続けて怒鳴り声が飛び込んでくる。
「……なんだ?」
店の空気が一瞬で変わった。
作業していた手が止まり、従業員たちが一斉に入口を見やる。
次の瞬間、商会の扉が乱暴に蹴り開けられた。
激しい音と一緒に、冷たい外気が流れ込む。
「よう。景気良さそうじゃねぇか」
入ってきたのは、五人組の男たちだった。
革鎧に粗悪な剣。無精髭。酒臭い息。
まともな客じゃないのは、一目で分かる。
先頭の男が店内を見回し、鼻で笑う。
「金目のもん、全部出せ」
……盗賊か。
誰かが小さく息を呑む。
だが、反抗する声は上がらなかった。
この商会に腕の立つ護衛なんていない。
いるのは雑用係と荷運び、それに俺みたいな半端者だけだ。
「ま、待ってくれ! うちはそんな大した店じゃ――」
店主が慌てて前に出る。
だが、男はその胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「あるかどうかは、俺らが決める」
そのまま突き飛ばす。
店主の体が棚にぶつかり、積まれていた木箱が崩れ落ちた。
「ひっ……」
従業員の一人が短く悲鳴を漏らす。
普段俺をからかっている連中まで、顔を青くして固まっていた。
「お、おい……どうする?」
「どうするって……」
「衛兵呼べよ!」
「その前に刺されたら終わりだろ!」
小声が飛び交う。
だが、誰も動けない。
盗賊たちはそんな反応を見て、余計に気を良くしたらしい。
「ほらほら、もっとマシなもん置いとけよ」
「これ商会っていうよりゴミ捨て場じゃねぇか?」
「ははっ、違いねぇ」
好き勝手に笑いながら、店の中を漁っていく。
棚を開け、木箱を蹴り倒し、気に入らなければそのまま床へ放り投げる。
ガラクタが転がり、割れた皿の音が響いた。
……最悪だ。
だが、どうしようもない。
俺だって分かっている。
相手は武器を持った大人だ。
まともに殴り合って勝てる相手じゃあない。
その時だった。
「……お?」
一人の盗賊の視線が止まる。
向いた先は――ミリスだった。
白銀の髪。サイズの合っていない服。
薄汚れていても、その見た目はよく目立つ。
男がニヤリと口を歪める。
「なんだ、掘り出し物あるじゃねぇか」
嫌な空気が背筋を走った。
男がミリスへ近づく。
「おい、お前。こっち来い」
まるで商品を選ぶみたいな口調だった。
ミリスは動かない。ただ、こちらを見ている。
……命令待ちかよ。
「聞こえてんのか?」
男がさらに近付く。
手が伸びる。
その瞬間。気付けば、俺は前に出ていた。
「……触るな」
声は思ったより小さかった。それでも、盗賊の手は止まる。
「……あ?」
ゆっくり視線が向いた。
値踏みするような目だ。それだけで喉が乾く。
「なんだお前」
「そいつに……手ぇ出すな」
言いながら、自分でも分かる。
足が震えていた。
怖い。
まともに喧嘩なんてしたこともない。
相手が本気になれば、一瞬で終わる。
でも。ここで退いたら――。
ミリスはまた、あの裏通りみたいな場所へ戻される。
そう思ったら、体が勝手に動いていた。
盗賊は一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。
「ははっ、マジか」
周囲の仲間も笑い始める。
「お前が守んのか? その細腕で?」
「無理だろ、見た感じ」
笑い声が店の中に広がる。
後ろでは、商会の連中まで青い顔をしていた。
「お、おいクラド……やめとけって……」
「相手にすんな……!」
聞こえる。でも、足は動かなかった。
「……どけ」
盗賊が面倒そうに言う。
俺は小さく首を振った。
本当に、それだけしかできなかった。
「はぁ……」
男が呆れたように頭を掻く。
「なら、死んどけ」
次の瞬間。視界が横に吹き飛んだ。
何が起きたのか理解する前に、体が床へ叩きつけられる。
「がっ……!」
息が詰まる。
頬が熱い。
殴られた。
たった一発で、頭の中が真っ白になる。
「クラド!」
誰かの声が聞こえた。だが、誰も動けない。
店の空気は完全に凍りついていた。
「さて、と。邪魔な虫も潰したし――」
盗賊の男が、ミリスの腕を乱暴に掴む。
痩せ細った体がぐらりと揺れた。
「小汚えけど、顔は悪くねえな」
「磨けば高く売れそうだな」
「性奴隷向きじゃね?」
男たちが下卑た笑い声を上げる。
その間も、ミリスは抵抗しない。腕を掴まれても、乱暴に引っ張られても、ただ黙ったままそこに立っていた。
助けを求めることもしない。
まるで、自分にそんな価値はないとでも思っているみたいだった。
胸の奥が、妙にざわつく。
違うだろ。
そんな風に扱われていいわけがない。
「……勝手に決めんな」
気付けば、口が動いていた。
盗賊たちがこちらを振り返る。
俺はふらつきながら立ち上がった。
殴られた頬が熱い。膝も笑っている。正直、今すぐ逃げ出したかった。
それでも、ここで目を逸らしたら、一生後悔する気がした。
「ミリスの価値を……勝手に決めんなよ」
俺の声に、盗賊たちの笑みがすっと消える。
「なんだお前、まだいたのか?」
呆れたように男が言う。
「奴隷一匹にムキになりやがって。そんなに大事なら、お前もまとめて売ってやろうか?」
ゲラゲラと笑いが起きる。
怖い。
相手は武器を持った盗賊で、俺は雑用係だ。まともに殴り合えば、一瞬で終わる。
でも、それがなんだ。
ミリスは物じゃない。勝手に値段をつけられて、好きに扱われていい存在じゃない。
だから。
「ミリスの価値は……」
自分でも驚くくらい、はっきり声が出た。
盗賊たちが眉をひそめる。
俺は震える足を踏みしめながら、ミリスを掴んでいる男を睨み返した。
「ミリスの価値は――俺が決める!」
その瞬間だった。
左手にはめた指輪が、突然熱を帯びる。
「……っ?」
視界の奥で、見慣れた数字が激しく明滅した。
《鉄の剣:120G》
《木箱:3G》
浮かび上がる数字が、次々に書き換わっていく。
いや、違う。
これは“見えている”だけじゃない。
まるで自分の意思に反応するみたいに、数字そのものが揺らいでいる。
指輪の光が強くなる。
同時に、頭の奥へ直接何かが流れ込んできた。
価値を書き換えろ。
お前が決めろ、と。
「――【価格表示】が、変化してる……?」
脳裏に浮かんだ文字が、ゆっくりと塗り替わる。
【価格表示】――
【
その瞬間。
目の前の世界が、まるで別物みたいに見えた。
急ぎ足で競売会会場――オペラ座を出ると、露店の連なった夜市が広がっていた。 ほんの数分前まで笑い声で満ちていたはずの夜市は、もうそこにはない。 果物を抱えた商人は荷車を放り出し、家族連れは悲鳴を上げる子供の手を引いて逃げる。 行き交う人々が我先にと押し合い、倒れた誰かを踏み越えて逃げて行く。 その中心に、夜空を背負うように立つのは、三メートルを超える怪物。 ベリアルは逃げ惑う群衆など眼中にない様子で、一軒の露店を掴み上げた。 次の瞬間、その屋台は砂のように崩れ始めた。 木材も、布も、並べられていた雑貨も。 触れられた全てが色を失い、灰となって夜風へ溶けていく。『脆い』 ベリアルは掌に残った灰を見つめ、退屈そうに呟いた。『価値無き器は、触れるだけで崩れる』 言葉と同時に近くの露店を蹴散らす。 その風圧一つで、周囲のテントが舞い上がり、小さな瓦礫が飛び荒む。「皆さん、下がって!」 《硬》 カグヤが間髪入れずに札を切り、障壁を展開した。 それでも勢いがついた瓦礫は、その障壁すら突き破って襲いかかってくる。『先刻の人の子か。何をしに此処へ来た』「そんなの決まってるだろ! オマエを止めに来たんだ!」「街を壊すなんて、そんなの許さない!」『戯言を。貴様らのような無価値なデク人形に、我は倒せぬ』 ベリアルは俺たちを見下しながら、一歩踏み出す。 地面が大きく揺れ、思わず転びそうになる。『だがこの我に立ち向かう勇気、賞賛に値する。価値なき勇気だがな』「図体だけじゃなく、態度もデカいとはなァ。ハッキリ言って、私はアンタが嫌いだぜ」 ヴェルカは鼻で笑い、スカートの裾を豪快に引き裂いた。 そして先程のお返しと言わんばかりに右脚を踏み出し、ベリアルの顔を睨み上げた。「テメェにも教えてやるよ。人間サマの本気がどれくらい恐ろしいモノかをよォ!」『雑兵ほどよく吠えるものよ。まずは貴様から血祭りに上げてくれる』 巨大な拳が、ゆっくりと持ち上がる。「来るぞ!」 俺が叫ぶより早く、ベリアルの拳が大地に叩き付けられた。 轟音。 |石畳《いし
嫌な汗が背中を伝った。 アルベリオの身体に走った無数の赤い線が、鮮血となって噴き上がる。 噴き出した血飛沫がステージを赤く染め、観客席側から初めて恐怖の悲鳴が上がった。「おいおい、どうなってんだこりゃ?」 ヴェルカは目を丸くして周囲を見渡す。 誰がやったのか、アルベリオを襲撃した犯人を捜しているのだろう。 アルベリオだって、何が起きたか分からず放心している。 無理もない。 けれど俺たちには、それが何者の仕業なのか、薄らと分かりかけていた。 実際に、それを一度味わっているから。 だからこそ、恐怖が背筋をなぞる。「この現象って、まさか」 冷や汗がカグヤの頬を伝う。「なんで? ミリスが見た時、アイツは……」「いや、ミリスを疑うつもりはない。でも、この“能力”は間違いない」 そもそも、俺たちはアルベリオたちを殺すために来たワケじゃあない。 息があればそれで充分。カグヤの貨物を取り返せたらそれで良かった。 しかし、だったら何故――。「……一体これは、何の真似だ?」 アルベリオが、スーツを血に染めながら裏口を睨む。 その視線を追うように、俺たちも後ろを振り返った。「ゼロ……まさか、裏切ると言うのか!」「裏切るなんて酷い言い方は止してくれよ、会長」 裏口の前に立っていた男――ゼロは、指先でナイフを回しながらため息を吐いた。 顔はボコボコ、腕や脚に無数の痣を付けながら、しかし痛覚がないみたいに笑っている。「ぼくはずっと、この瞬間を待っていたんだよ」 言い終えると、ゼロの口が横に裂けた。 そのまま一歩、また一歩と歩み出し、すれ違い様に俺たちを振り返る。 だが、ゼロは俺たちに襲いかかるでもなく、アルベリオの前でしゃがみ込んだ。「ありがとう会長、おかげで予定通りに計画が進むよ」「ゼロ……君は一体、何者なんだ……?」 アルベリオは傷だらけの体を震わせながら、ゆっくりとゼロを見上げた。 するとゼロはにっ、と歯を見せるように唇を開いた。 笑っているのだろう。けれど、口角の筋肉が全く動いていない。「ぼくはゼロだよ。《奈落の楔》のゼロさ」 初めて聞く名だった。 ミリスとカグヤは言わずもがな。アルベリオも同じ表情を浮かべた。 誰一人として、その名に覚えがない。 ただ
「まさか……ゼロを倒したというのですか……?」 初めてだった。 アルベリオの貌から、余裕が音を立てて剥がれ落ちた。 ミリスは頬についた血を親指で拭いながら、にっこりと満面の笑みを浮かべる。「あんな奴、ミリスの敵じゃなかった」 ……笑顔で嘘を吐くな。 白かったドレスは赤く染まって、髪は煤だらけ。 両手なんて、小刻みに震えっぱなしじゃないか。 明らかに大丈夫ではない。けれど、「ハッ、強がりやがって」 その姿を見たとたん、ヴェルカが思わず吹き出した。「一体誰に似たんだか」 言いながら俺を一瞥した。 ――いや、多分アンタだと思うぞ。 口には出さず、目で言い返す。 それでも、ミリスの軽口が聞けただけで、胸の奥が少しだけ軽くなった気がする。 俺とカグヤ、ヴェルカ、そしてミリス。ようやく全員揃ったんだ。 それだけで、不思議と負ける気がしなかった。「……なるほど。これで四天鑑定は全滅ですか」 アルベリオはゆっくりと息を吐き、頭を抱えた。「悔しいですが、認めましょう。ヴェルカ、あなたの弟子は相当優秀なようですね」「今更褒めたって、お世辞でも嬉しくねえぜ」「だとしても、四天鑑定を退けた事実は受け止めざるを得ない」 非常に悔しいですがね。アルベリオはそう結んで、ニヤリと口の端を吊り上げた。 確かに俺たちは四天鑑定を倒した。 それなのに、胸は少しも晴れなかった。 むしろ、嫌な予感が背筋をなぞる。「だからこそ残念で仕方が無い。優秀なキミたちが、こんな悪女に利用されていることが」「悪女……?」 ヴェルカが? 利用している?「バカを言うな! 何を証拠にそんなことを!」「証拠? それは既にキミたちも知っているはずでしょう?」 アルベリオは露骨に大きなため息を吐いて、憐れんだ目を向けてきた。 けれど、その目に射貫かれて、ヴェルカとのこれまでの出来事が脳裏を駆け巡った。 商会で出会った日。 ガザルム坑道で、本当に死にかけたこと。 理由も聞かされないまま、この競売会へ連れて来られたこと。 ……言われてみれば。 俺たちは一度も、ヴェルカの本当の目的を聞いていない。「…………」 信じたい。けれど、反論できない。
ガベルが競売台に突き刺さった瞬間、それまで怒号と歓声で揺れていた会場が、水を打ったように静まり返った。 何百という視線が、一斉に俺たちへ突き刺さる。 ……やっちまった。 頭より先に身体が動いた結果がこれだ。 頬が熱い。 今さら「人違いでした」なんて顔をして帰れたら、どれだけ楽だろう。 そんな情けない考えが頭を過る。 けれど、俺の背中にはミリスがいる。 傷だらけになりながら、それでも笑って俺たちを送り出してくれた少女がいる。 あの笑顔を見た後で、アルベリオに背中を向けるなんて、できるはずがなかった。「……残念です」 アルベリオは本当に残念そうに息を吐いた。 怒っているわけじゃない。 むしろ、「どうして分からないんですか」とでも言いたげな顔だった。 その穏やかさが、余計に腹立たしい。「膝を撃ち抜けば、十分だと思っていたのですがねえ」 白い手袋を嵌めた指が、静かに俺を指す。「痛みは優秀な教師です。一度教えれば、大抵の子供は二度と同じ失敗を繰り返さない」 まるで当たり前の真理でも説くような口調だった。 その声音には、人を撃った罪悪感なんて欠片もない。「ですが、どうやら私も買い被っていたようだ」 黄金色の瞳が、ゆっくりと細くなる。「ヴェルカの弟子が、ここまで聞き分けの悪い子だったとは」「……言ってくれるな」 膝の痛みより先に、胸の奥がじりじりと熱を帯びていく。 思わず言い返しかけた、その時だった。「違う。それは教育なんかじゃない」 カグヤの声は震えていた。 それでも彼女は一歩も退かず、アルベリオを真っ直ぐ見据えて言い放った。「ただの脅しだ!」「結果が同じなら、過程はどうだっていいでしょう?」 アルベリオは眉一つ動かさない。 牧師のような穏やかさで、ゆっくりと言葉を重ねていく。「商売だって同じですよ。利益を得るためなら、手段は何だっていい」 その笑みが、僅かに深まる。「たとえ命を奪うことになったとしても、ね」「腐ってやがる……!」 思わず吐き捨てた俺を見ても、アルベリオは肩を竦めるだけだった。「だから、残念ですが愚かな君にはここで死んでいただきます」 白い手袋を|嵌
人間という生き物は、案外しぶとい。 それは賞賛ではなく、どちらかと言えば呆れに近い。 それがラグナの抱いた感想だった。 骨が折れようが、血が流れようが、肺が焼け付こうが、それでも生きることを諦めない。 否、諦める暇すらないだけなのかもしれない。 少なくとも今のミリスは、その典型だった。 ゼロとの戦いを終えた彼女は、自力で立っていることすら難しい状態だった。 にもかかわらず、それでも前へ進こうとしていた。 だがその度に身体が揺れ、今にも倒れそうになる。「無理しないで」 見兼ねたラグナが肩を貸す。 ミリスは少しだけ驚いた顔をした後、小さく笑った。「ラグナ、意外と優しい?」「私好みの可愛い子にだけはね」 呆れたように返しながらも、ラグナは肩を竦める。 優しい。 そんな言葉で片付けられるほど綺麗な理由ではない。 ただ少しだけ。 本当に少しだけ。 あの無表情な暗殺者が追い詰められていく様子が愉快だっただけである。 だから助けた。 それだけだ。 ――たぶん。 地下倉庫の崩れた通路を歩きながら、ミリスはぽつりと呟いた。「ねえ、ラグナ」「なあに?」「どうして助けてくれたの?」 その問いに、ラグナは一瞬だけ空を見上げる。 正確には天井だった。 けれど今は、空と呼んでも間違いではない気がした。「さあ、知ーらない。私は何もしてないわよ~?」 そう答えた後で、ラグナは少しだけ口元を緩めた。「でもそうね。きっと、勝利の女神様が微笑んでくれたんじゃない?」 だが数秒考え込み、「……いいえ」 と、自分で否定する。「今回ばかりは、微笑むどころか大爆笑してたみたいだけど」 その言葉に、ミリスは意味が分からないという顔をした。 勝負事というのは、公平であると同時に、もっとも不公平なものである。 しかし、だからこそ面白いとラグナは考える。 そして今回の勝負は、きっと女神様のお気に入りだったのだろうと、ミリスはそう結論付けた。 *** 一方その頃。 地下深くに築かれたオペラ座 《ファントム》では、既に夜天競売会の前哨戦が始まっていた。 幾重にも連なる赤い客席、天井を埋め尽くす豪奢なシャンデリア、舞台を
「クラド、カグヤ。ここは任せて、先に行って」 ミリスの言葉を聞いた瞬間、二人は何を言われたのか理解できず、ただ呆然と彼女の顔を見返した。 ここへ残るということは、三人がかりでも勝てなかったゼロを相手に、たった一人で時間を稼ぐという意味に他ならない。「それはダメだ!」 真っ先に声を荒げたクラドは痛みも忘れたように身を乗り出し、今にも倒れそうなミリスの肩を掴もうと手を伸ばした。「そんなの絶対ダメだ! お前一人残ったら――」「クラド」 だがミリスが静かに名前を呼ぶと、それだけで続きの言葉は喉の奥へ引っ込んでしまう。「時間がないの」 ミリスは裏口へ視線を向けた。 遠くで鳴り続ける鐘の余韻が、まだ地下倉庫の空気を震わせている。 夜天競売会は、既に始まっている。「でも!」「それに、今下手に動くのも悪手です」 今度はカグヤが口を開いた。 普段通り落ち着いた声だったが、その指先は小さく震えている。「この空間には奴の能力がまだあります。下手に移動すれば、会場へ向かうより先に切り刻まれます!」 カグヤの言葉に反論できる者はいなかった。 実際、こんな地雷原の中を駆けるのは、無茶というより自殺行為に等しい。 それでもミリスだけは首を横へ振った。「だからミリスが残る」「いけません」 即座にカグヤが否定する。 その反応は、いつもよりずっと強かった。「ミリス殿が残る必要なんてありません」 カグヤは俯き、唇を強く噛み締める。 そして、そっとミリスの肩に手を触れた。「貨物なんて、もうどうだっていいんです。私の目的なんかより、ミリス殿の命の方がずっと大事です!」 その場に沈黙が落ちた。 ミリスは目を見開く。「だから、お願いです」 カグヤはゆっくりと顔を上げた。 いつも冷静な紫の瞳が、今だけは少し潤んでいる。「一緒に、乗り切りましょう」 その言葉に、ミリスは小さく目を伏せた。 少しだけ。 本当に少しだけ、迷うように。 けれど次の瞬間には、もう答えを決めていた。「やっぱり、二人とも優しいね」 そう呟いた瞬間、クラドたちの身体がふわりと宙を舞った。「おいミリス! やめろ!」「ダメです! 降ろしてください!」 クラドが必死に腕を伸ばす。 カグヤも空